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特別掲載:リレーエッセイ「被災地で生きる女たち」(2015年6月)

2016/03/11

『女たちの21世紀』のリレーエッセイ「被災地で生きる女たち」は、被災地で暮らす女性や、原発事故で生活に大きな変更を余儀なくされた方の思いを届けるため、2013年9月からはじまりました。震災から5年の今日、執筆者の承諾を得て掲載します。(2016年3月11日 『女たちの21世紀』編集部)

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『女たちの21世紀』82号、2015年6月掲載

リレーエッセイ 被災地で生きる女たち 8

古舘和子(岩手県上閉伊郡大槌町赤浜/大槌町連合婦人会副会長/はまゆり復元保存会会長)

津波で乗り上げた観光船「はまゆり」

2011年3月11日午後2時46分、日本周辺における観測史上最大の地震が発生。会社からすぐ自宅に戻ったが、婦人会のウインドブレーカーを手にするのがやっとだった。「逃げろ」という叫び声に慌てて外に出ると、真っ黒な津波の壁がすぐそこに迫っていた。必死に近くの高台に向かった。安全を確認し振り向くと、我が家は多くの思い出と共に一瞬にして呑み込まれてしまった。あのときの悲鳴は今も耳から離れることはない。
数日後、地域の死者行方不明者は93名、うち婦人部メンバーは14名と知り、私はその場で泣き崩れ、しばらく何も考えることができなかった。しかし、何かしなくてはと使命感のような気持ちで、その後は涙をこらえながら地域の皆さんの世話をした。
避難所生活が続く中、男性たちとの食い違いが顕著になってきた。毎日、朝と晩に行っているミーティングから女性たちを外すようになったのだ。男性たちだけで物事を決める強引なやり方に悶々としていた。
その頃、復興支援で山梨県から来ていた彫刻家の星野敦先生に出会った。彼は「震災を風化させてはいけない。復元された「はまゆり」は防災教育のシンボルとなり、地域の活性化にも繋がっていく」と、観光船「はまゆり」復元の草の根運動を始めていた。
当時、生きる望みを失いかけていた婦人部の会員のために星野先生の講演会を開いたところ、みんなの顔に笑顔が戻った。はまゆりの復元は私たちの使命であると手を取りあったのだった。
その後、婦人会は「はまゆり復元要望書」を大槌町長に提出し、12年6月の定例議会で復元のための寄付金条例が可決された。
しかし、それからが大変だった。赤浜地区の一部の男性たちが「俺たちの考えと違う」と圧力をかけてきたのだ。私たちの話は一切聞かず、私には「会の役員を辞めろ」とか、道路を歩いていた会員には「誰がはまゆり復元運動をやっているんだ!」と罵声を浴びせ脅した。怖くなった女性たちの中には、運動から離れる人もいた。私も心身共にぼろぼろになりかけたが、亡くなった人たちのことを想うと一歩も引くわけにはいかない。後世に伝えていくために頑張らなければ、と強く自分に言い聞かせた。
ところが12年秋、私たちはさらなる困難に直面する。はまゆりのすぐ隣に東京大学海洋研究所が移転して来るというのだ。説明会で見せられた図面には駐車場も取れず、復元を邪魔するかのように、はまゆりの横に線が引かれていた。大学側の説明は地域を無視したものであり、当然私たちは反対運動を起こすことになる。今日まで話し合いの再開を申し込んでいるが、何もないままだ。15年1月26日、赤浜地域復興協議会の事前説明会で、赤浜住人は「はまゆり」の復元に反対をしないと発表があった。私の目に涙が浮かんだ。しかし、その数日後、婦人会の名前は新しい赤浜地域役員会名簿から消えていた。
残念でならないが、これから赤浜婦人会は場を赤浜から町に移し、「大槌連合婦人会」として新たな活動をしていく覚悟である。はまゆりの復元運動は15年8月に特定非営利活動法人「はまゆり復元保存会」として新たに出発する予定だ。できるだけ早く復元を実現させたいと願っている。

入稿用【連載】被災地で生きる女たち (2)
岩手県大槌町ウェブサイトより

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